八丈島 南原千畳敷 [旅 関東]
八丈冨士の噴火活動が盛んだったころ、莫大な溶岩流が裾野を覆い海にせり出して出来たのが広大な南原千畳敷(なんばらせんじょうじき)
徐々にせり出してきている様子が溶岩のヒダでわかります。
台風で高波がすごいときは海から波がこの千畳敷を乗り越え、歩道まで達したそうです。つくづく自然の力は怖ろしい。
遊歩道のそばには八丈島への流人第1号となった宇喜多秀家とその妻、豪姫の像が設置されています。
宇喜多秀家は豊臣秀吉の養子にもなった豊臣家五大老の一人。加賀藩の前田利家の娘、豪姫と結婚し、57万石の岡山城主になったが、関が原の合戦に敗れ、1606年、34歳で長男次男とお付きのもの数名とともに八丈島に流され、50年間妻と再会することなく島で過ごし、1655年に亡くなりました。
数年前、金沢にいた頃に金沢検定を受検した際の最初の問題を今でも覚えています。(ちなみに結果は不合格)
「利家の娘、豪姫の夫、宇喜多秀家が流罪となって送られた場所はどこか?」
当時はそんなマニアックな知識はありませんでしたが、ここで完全に記憶されました。
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徐々にせり出してきている様子が溶岩のヒダでわかります。
台風で高波がすごいときは海から波がこの千畳敷を乗り越え、歩道まで達したそうです。つくづく自然の力は怖ろしい。
遊歩道のそばには八丈島への流人第1号となった宇喜多秀家とその妻、豪姫の像が設置されています。
宇喜多秀家は豊臣秀吉の養子にもなった豊臣家五大老の一人。加賀藩の前田利家の娘、豪姫と結婚し、57万石の岡山城主になったが、関が原の合戦に敗れ、1606年、34歳で長男次男とお付きのもの数名とともに八丈島に流され、50年間妻と再会することなく島で過ごし、1655年に亡くなりました。
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