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熊倉功夫氏講演会 「根津青山の茶の湯」 [学び]

根津美術館 新創記念特別展 第二部「根津青山の茶の湯」展に合わせて開催された特別講演会。林原美術館館長の熊倉功夫氏のお話を聞きました。

NHK教育テレビの茶道関係の番組で何度も拝見していましたが、実際に肉声を聞くと、本当に穏やかな話しぶり。つい、途中で眠りに落ちてしまいました(反省)

講演のテーマは 「明治後期から昭和15年までの半世紀の間、日本の茶の湯がいかに豊かなものを生み出したか」

千利休や秀吉たちが活躍した桃山時代に栄えた茶の湯。
大名により支えられていた茶の湯は明治維新により変化。三千家の家元には弟子がいなくなるなど、茶人の衰退が始まったのが明治のはじめのこと。

しかし、明治20~30年代になると生業としての茶人による茶の湯から、趣味として茶を楽しむ数寄者のなかで茶の湯が盛んになる。
以降、昭和15年くらいまでのおよそ半世紀が数寄者による日本の茶の湯が栄えた時代

数寄者(茶をたしなむ人、風流な人)は“モノ好き”に通じ、さまざまな茶道具、調度品を手に入れた。そして、お互いが主催する茶会に招き合い、道具類を披露し批評し合った。
そんな数寄者として挙げられるのが、益田鈍翁高橋箒庵根津青山(初代根津嘉一郎の号名)ら。
彼らは田舎から都会に出てきて事業で成功、財を成した人が多く、成功の暁には新しい国家を築きたい、健全な若者を育てたいという高い志を持っていたそうです。(根津嘉一郎は山梨県出身で、のちに武蔵野高校を設立)

そんな数寄者たちが“桃山時代”を復活させたが、昭和15年は茶の湯における転換点となる。

理由1:昭和12年から14年にかけて根津青山、高橋箒庵らが亡くなり、
理由2:昭和15年に日本の税制改正が行われ、個人所得に対する課税や相続税が多く課されるようになり、
戦後、数寄者が減少。数寄者の存在が社会的に許されなくなった。
それまでは事業の成功により得た個人財産を自由に使えた時代であり、その使途は個人消費のみならず慈善活動にも及んだが、法改正によりそれができなくなった。

講演の参考資料として、高橋箒庵が根津青山の茶会にまつわる話を書いた書物のコピーが配付され、熊倉氏の解説を聞いたあとで実際に茶会で使われた茶道具や器を見るとますます理解が深まり、味わいも出てきます。

講演で私が最も興味深く思った内容は、国の法制度の改正が経済活動や文化活動に多大な影響を与えたこと。(日本の文化財産はある意味、数寄者と言われた実業家や財閥家の人たちによって守られ、支えられていた)

また、山梨大学 教育人間科学部の齋藤康彦教授は、大寄せ茶会などの会記の内容(出席者)から、近代数寄者たち(実業家)の交流・当時の経済人たちのヒューマンネットワークについて研究されている、という話も今までにない視点で非常に新鮮に感じた。

アプローチを変えるといろんな事象がイキイキと浮かび上がってくる。今回の講演会参加の収穫。

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