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三菱が夢見た美術館 [アート&デザイン]

丸の内でもう一つ訪れたのは、丸の内ブリックスクエア内にある三菱一号館美術館
開館記念展<Ⅱ>三菱が夢見た美術館 岩崎家と三菱ゆかりのコレクション」の最終日だったため。

20101103 三菱が夢見た美術館.jpg
岸田劉生「童女像(麗子花持てる)」1921年(大正10年)、個人蔵

会場構成は次のとおり。(展示パネルの説明文から引用も)

序章 「丸の内美術館」計画:三菱により丸の内の近代化と文化
土佐藩の海運業を任された岩崎彌太郎(1835-1885)が明治維新後に三菱を興しました。
1890年(明治23年)、三菱2代社長彌之助の時代、三菱が丸の内の陸軍用地を政府から128万円で買い取り、堅牢な様式建築を建てて事務所街を形成しようという計画がありました。その設計にかかわったのがイギリス人建築家、ジョサイア・コンドル(1852-1920。旧岩崎邸や旧古河庭園洋館の設計にも携わった人物です。

第一章 三菱のコレクション:日本近代美術
岩崎家に限らず、明治大正期の富裕な実業家たちは骨董や茶道具に興味を抱くことが多く、同時代の美術や文化を支援する例は珍しいことでした。
三菱は明治20年代から丸の内一帯で美術館設立を視野に入れた西洋的な街づくりを計画していました。
展示作品は、黒田清輝、藤島武二、梅原龍三郎、安井會太郎、坂本繁二郎ら、日本を代表する名だたる画家たちのもの。

第二章 岩崎家と文化:静嘉堂
彌之助(1851-1908)と小彌太(1879-1945、4代社長)の父子が明治初期から昭和前期にかけて収集した古書籍、美術品を保存、公開しているのが世田谷区にある静嘉堂。

第三章 岩崎家と文化:東洋文庫
国宝、重要文化財を間近に見られました。

第四章 人の中へ街の中へ:日本郵船と麒麟麦酒のデザイン
三菱系企業のレトロな宣伝ポスターを展示。

第五章 三菱のコレクション:西洋近代美術

終章 世紀を超えて:三菱が夢見た美術館
三菱の「大番頭」と呼ばれた荘田平五郎は、丸の内に美術館を作る計画を立てていた。丸の内の開発にあたった彌之助の右腕だった荘田にとって、丸の内のあるべき姿は事業と文化が共存する街であった。
それから110年が経ち、2009年、三菱一号館が復元され、2010年4月に三菱一号館美術館となり世紀を超えて、その夢は実現したのです。 

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cecileyvr

初めて就職したのが小彌太氏創業の三菱商事でした。古いビルのおごそかなエレベーター、自動ドアでなく思いっきり押さないと開かない重厚なドアの上には「XXXビルヂング」と記されていました。もう大昔の話だわ~。
by cecileyvr (2010-11-08 01:15) 

いっこ

★Cecileさん、あこがれの“丸の内OL”だったのですね。
by いっこ (2010-11-11 07:30) 

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