ソウル 景福宮 [旅 韓国]
ソウル旅行記の続きです。
滞在2日目、市内観光ツアーで青瓦台の次に訪れたのが景福宮(キョンポックン)
ソウル市内にある5大王宮の中でも最も規模が大きい宮殿。
日本語の案内書から概要を抜粋してご紹介します。
・朝鮮王朝が成立して三年後、1395年に創建された朝鮮王朝第一の法宮(王様の住む宮廷)。名称には‘新しい王朝が大きな福を享受して繁栄する’という意味がこめられている。
・1592年の文禄の役(豊臣秀吉による第一次朝鮮出兵)の際、全焼してしまい約270年間復旧されずに放置されていたが1867年に高宗の実父、興宣大院君の主導で再建された。
・日本の植民地時代に計画的に毀損された。(1915年、90%以上の殿閣が取り壊された)
・1990年から本格的な復元事業を推進して昔の朝鮮総督府の建物を撤去して興礼門一帯を復元し、内殿と東宮圏域も元の姿を取り戻しつつある。
韓国の歴史のなかで日本が負の要素としてかかわっているのを聞くと胸が痛みます。
景福宮を囲む垣根の四方には四つの門があり、伝統的な五行説に由来した建春門(東)、光化門(南)、迎秋門(西)、神武門(北)と名付けられた。それぞれ春・夏・秋・冬と木・火・金・水を象徴し、真ん中に位置する勤政殿を中心に四方を取り囲んでいる。
光化門の内側、興礼門一帯
朝10時には守門将交代式が行われます。(まるで『チャングムの誓い』に出てくる武官のよう)
興礼門のさらに内側、勤政門を進むと景福宮の最高殿閣である法殿(正殿)、勤政殿(‘天下の事は勤勉であれば治まる’という意味)があり、王の即位式や外国使節の接見などの国家行事を行った場所。(韓国の国宝に指定)
前に敷かれている花崗岩は日光による眩しさを減らすためにわざと荒く削ってあり、勤政殿前の庭先(朝廷)の真ん中にあるのが三道。両側より少し高くなっている真ん中の道を御道といい、王だけが通ることができる。左右はそれぞれ文官・武官が歩く。
三道の左右には臣下たちが階級別に並ぶための品階石が立っている。近くに見える丸い留金は、王と官員たちが朝廷に集まっている時、日光や雨を遮る天幕(テント)を張るのに使ったもの。
勤政殿の二層の月台の上には欄干があり、青竜、百虎、朱雀、玄武の四神と、十二支等の彫刻が置かれている。
池の中に建てられているのが王が臣下たちと宴会を開いたり、外国使臣を接待した慶会楼。
この建物は周易の原理に基づいて建てられたと言われており、一階部分の石柱48本のうち外側は角ばり、内側は円柱で陰と陽を表しているとのこと。正面7間、側面5間で、中央の3間は天地人を、12間は一年12ヶ月を、一番外側の20間外周の24本の石柱は24節気を意味する。
王と王妃が日常生活する所を寝殿といい、康寧殿は王の寝殿、交泰殿は王妃の寝殿。
交泰殿の後ろには階段式花壇と煙突が美しい峨嵋山という王妃の後園がある。
交泰殿は法宮の中でも女性らしい建物です。
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滞在2日目、市内観光ツアーで青瓦台の次に訪れたのが景福宮(キョンポックン)
ソウル市内にある5大王宮の中でも最も規模が大きい宮殿。
日本語の案内書から概要を抜粋してご紹介します。
・朝鮮王朝が成立して三年後、1395年に創建された朝鮮王朝第一の法宮(王様の住む宮廷)。名称には‘新しい王朝が大きな福を享受して繁栄する’という意味がこめられている。
・1592年の文禄の役(豊臣秀吉による第一次朝鮮出兵)の際、全焼してしまい約270年間復旧されずに放置されていたが1867年に高宗の実父、興宣大院君の主導で再建された。
・日本の植民地時代に計画的に毀損された。(1915年、90%以上の殿閣が取り壊された)
・1990年から本格的な復元事業を推進して昔の朝鮮総督府の建物を撤去して興礼門一帯を復元し、内殿と東宮圏域も元の姿を取り戻しつつある。
韓国の歴史のなかで日本が負の要素としてかかわっているのを聞くと胸が痛みます。
景福宮を囲む垣根の四方には四つの門があり、伝統的な五行説に由来した建春門(東)、光化門(南)、迎秋門(西)、神武門(北)と名付けられた。それぞれ春・夏・秋・冬と木・火・金・水を象徴し、真ん中に位置する勤政殿を中心に四方を取り囲んでいる。
光化門の内側、興礼門一帯
朝10時には守門将交代式が行われます。(まるで『チャングムの誓い』に出てくる武官のよう)
興礼門のさらに内側、勤政門を進むと景福宮の最高殿閣である法殿(正殿)、勤政殿(‘天下の事は勤勉であれば治まる’という意味)があり、王の即位式や外国使節の接見などの国家行事を行った場所。(韓国の国宝に指定)
前に敷かれている花崗岩は日光による眩しさを減らすためにわざと荒く削ってあり、勤政殿前の庭先(朝廷)の真ん中にあるのが三道。両側より少し高くなっている真ん中の道を御道といい、王だけが通ることができる。左右はそれぞれ文官・武官が歩く。
三道の左右には臣下たちが階級別に並ぶための品階石が立っている。近くに見える丸い留金は、王と官員たちが朝廷に集まっている時、日光や雨を遮る天幕(テント)を張るのに使ったもの。
勤政殿の二層の月台の上には欄干があり、青竜、百虎、朱雀、玄武の四神と、十二支等の彫刻が置かれている。
池の中に建てられているのが王が臣下たちと宴会を開いたり、外国使臣を接待した慶会楼。
この建物は周易の原理に基づいて建てられたと言われており、一階部分の石柱48本のうち外側は角ばり、内側は円柱で陰と陽を表しているとのこと。正面7間、側面5間で、中央の3間は天地人を、12間は一年12ヶ月を、一番外側の20間外周の24本の石柱は24節気を意味する。
王と王妃が日常生活する所を寝殿といい、康寧殿は王の寝殿、交泰殿は王妃の寝殿。
交泰殿の後ろには階段式花壇と煙突が美しい峨嵋山という王妃の後園がある。
交泰殿は法宮の中でも女性らしい建物です。
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